雑誌「刑政」11月号の社会時評欄に、産経新聞論説委員・別府郁郎氏の書いた「李香蘭こと、山口淑子」というコラムが掲載されていました。
「1930年代、上海は東洋で一番ジャズが盛んな町だった。」という書き出しで始まるこのコラムは、筆者が日本に伝わったジャズの源流を求めて上海を訪れるという内容で、文化大革命で迫害を受けた中国ジャズの苦難の歴史を、ひとりの中国人ベーシスト(鄭徳仁)が語った思い出話を署名入りで新聞に掲載したところ、その記事を読んだ山口淑子から「懐かしさのあまり思わず電話してしまった」というエピソードを紹介したものでした。
先日94歳で亡くなった「李香蘭こと、山口淑子」の死を悼むコラムです。
実は、山口淑子が「懐かしさのあまり電話」せずにおられなかったのは、そのコラムのなかで、彼女の出演作、満映作品「萬世流芳」について、別府氏がこんなふうに書いていたからでしょうか。
《「萬世流芳」は、昭和18年日本の国策会社「中華電影」が中心となって作られたアヘン戦争時の救国の英雄を描いた映画で、「売糖歌」はその劇中歌。 李香蘭はアヘンに悩む青年志士を慕うアヘン窟のアメ売り娘を演じた。 日本側の思惑は、「反英映画」だったのだが、「売糖歌」は「救国=抗日の歌」として浸透し、李香蘭は民族のアイドルとなった。》 行間に滲む「李香蘭は、決して「漢奸」などではなかった」という文意が、おそらく高齢の山口淑子を動かし、彼女の手を思わず受話器へと導いたのかもしれません。
「萬世流芳」とは万年の後までも芳しい名を残すという意味で、アヘン戦争における中国の英雄・林則徐の活躍を史実と虚構を交えながら描いた伝記映画の大作で、上海の中華聯合製片公司の撮影所で製作され1944年に日本でも公開されました。 満映のスター李香蘭(山口淑子)と中国のスター陳雲裳、高占非、袁美雲が共演しています。
1842年に締結された不平等条約である南京条約の100周年を記念した作品で、前半、林則徐の若き日のロマンスを扱った部分と、後半の阿片戦争を描く部分とでなっており、英雄・林則徐を描いているほか、史実にない林則徐のむかしの恋人・張静嫻の自己犠牲や、李香蘭演じる菓子売り娘を絡めたエピソードなどにも力点が置かれている。 菓子売り娘・鳳姑が阿片の害を説きながら、それを治療する飴をすすめる歌を阿片窟で歌う長いシークスエンスでは、阿片窟の大きなセットの群集の中を縦横に歩き回りながら李香蘭が絶唱し、その美声と美貌によってこの歌が中国の民衆にひろまり愛唱された。
当時、中華聯合製片公司の副社長・川喜多長政は、中国映画人の中から「漢奸」として処罰される人間を出さないことに最も心を砕いたので、彼は、自分が副社長の位置についただけで、他には一人の日本人もこの製作会社に入れずに、製作について一切口を出さない方針だったといわれており、映画「萬世流芳」は、日本側が製作に参加した数少ない例外の1本(ほかに「狼火は上海に揚がる」がある)でした。
佐藤忠男は、その理由を「この時期になると、川喜多長政が日本のイデオロギーを中国人に強要するような人間ではないことが中国の映画人たちにも理解されて、これらの「例外」が可能になった」と書いて、そのストーリーをこんなふうに紹介しています。
《林則徐(高占非)は福建巡撫の邸に寄宿して学業に励んでいる。 しかし、あるとき疑い深い邸の主人と口論になり、邸を去る。 その家の娘張静嫻(陳雲裳)は、この口論を聞いて父を非難し、林を慕う。 林則徐は、県令の邸に招かれて学問を続け、進士の試験に合格して役人になる。 同時に県令の願いを拒みきれず、その娘鄭玉屏(袁美雲)と結婚する。 静嫻は兄が阿片窟に出入りするようになったのを憂えて、阿片の害から患者を救う戒煙丸という丸薬を発明する。 林の妻玉屏の母親もこの薬で救われたことから、林は玉屏を静嫻のもとに送って礼を述べさせる。 以後、玉屏と静嫻は互いに林則徐の良き協力者として阿片追放のために活動することを誓う。 この福州の近くにイギリス人の経営する阿片窟があり、そこに林則徐のかつての学友潘達年(王引、戦後作品・千葉泰樹の「ホノルル・東京・香港」に出演していた)が出入りしている。
彼を慕っている菓子売り娘の鳳姑(李香蘭)は、父が阿片に倒れたことから、阿片の害が身にしみ、阿片の害について歌を歌って人々を戒めている。 そのために阿片窟の経営者から迫害されるが、潘達年が彼女を庇う。 二人は山の中の家に逃れ、彼女は阿片中毒の彼を介抱する。 そして戒煙丸の効き目で潘達年は元気になり、2人は愛し合う。 阿片の害が広まり、林則徐はそれを取り締まるために広州に赴任する。 静嫻も兄の行方を追って広州に来ているし、潘達年と鳳姑もそこで暮らしている。 林則徐は、密輸の阿片を応酬して群衆の前で焼く。 イギリス側は強硬な態度に出て、ここにアヘン戦争が始まる。 中国軍は破れ、朝廷は林則徐を斥ける。 イギリス軍が勝ちに奢って横暴の限りを尽くすのに対して、民衆が放棄して反撃する。 その指導者は男装した静嫻であり、潘達年もその戦いに参加してともに死ぬ。 南京条約が結ばれたあとで林則徐は元の地位につくが、その赴任の途中、静嫻の墓に詣でる。 まもなく彼は病の床に就き、妻の玉屏に看取られながら、イギリスの力がアジアから駆逐される日の来ることを予言して死んでいく。》